欠け始めた人生
今から約20年前、お袋が死んだ。
癌だった。病院に勤めながら健康診断で異常値が出たにも関わらず
放置したせいで手遅れになった。
「今夜が山です」と言われ、意識のないお袋のベッドの横で付き添った。
わたしは一人っ子。親父もあまり具合が良くなく、そして嫁も子供たちやお袋の世話、親父の世話などで疲労が蓄積していた。
わたしはお袋にはいつも生意気な態度ばかり。時には「早く死ね」と言ったこともあった。
だから話もしない。出来るだけ避けていたのだ。
それでも内心親には感謝の気持ちもあった。
ある冬の日、毎日毎日朝早く起きて朝の支度をしているお袋。
わたしは、「寒い中大変だろう」 いう思いから石油ファンヒーターを買ってきた。
もちろん「お袋のため」なんぞ、口が裂けても言わない。
買っていくとお袋は「こんなもん買ってきてっ」と言ってきた。
それでわたしは切れて「死ね」と言ってしまった。
そんなお袋。だからわたしは避けるし会えば悪態をとる。
死んでから思う。愛情を注いでくれたこと、健康を与えてくれたこと、不自由なく育ててくれたこと、自分を犠牲にして守ってくれたこと。
無い物ねだり。会いたい。お袋に。
でもあの時に戻ってもわたしはまたカッコつけて悪態をついていたに違いない。
嫁がついていてくれたのに交代してわたしがベッドの横に座る。
ベッドからお袋の手が出ている。
点滴をしているのだ。
意識のないお袋を見ると同じ姿勢で寝ているせいで床擦れを起こしている。
頭から背中にかけて血が滲んでしまっている。
痛いだろう。
わたしは、大人になってからはじめてお袋の手を握った。
温かい。そしてザラザラ。
しばらくするとお袋が咳き込む。
手を摩る。
咳き込みは治らない。
そして吐血。言葉にならない何かを言っている。
看護師を呼ぶボタンを押した。
しかし吐血のせいで息ができないお袋はそのまま静かになっていった。
親の死に目。
いいのか悪いのか。
親父とお袋。そしてわたし。
ずっと3人。わたしが大人になって結婚をし、家族の形を変えても
わたしの歴史はずっと3人。
子供の頃、「お母さんが死んじゃったらどうしよう」と毎夜泣いていた。
それが現実になった。
子供の頃のように泣いたりはしない。
でもわたしの歴史が欠けたはじめての瞬間だった。
お袋の告別式の家族の挨拶の場。
親父は憔悴しきっている。
だからわたしが挨拶をした。
挨拶の中、「いつもくそババァと言っていた」と言った途端、カミナリに打たれたように
泣いていた。立っていられないほど泣いていた。
沢山の弔問の人々の前で泣いていた。
お母さん、ごめんなさい。
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